社会人大学人見知り学部 卒業見込
やっと読み終わった。オードリーの若林が書いた本。
いや、人生の師匠・若林正恭と言ったほうが今の私にはしっくりくる。
そもそも1年前くらいに購入はしていたのだが、なんとなく放置してしまっていた。
存在すらすっかり忘れ、今の自分の人生をあーでもないこーでもないと批判ばかりしていたら、ふと思い出したのだった。
本を読み始めた当初、私は「ひねくれてんな~。私も相当ひねくれて可愛げないけど、ここまでではないな~。」と思っていた。
当たり前だ。本の序盤は若林が初めて社会に放り込まれ、今まで主観的にしか捉えてこなかった現実を、急に客観的に見なければならなくなった状態が書きつづられていたからだ。一方私は社会人8年目(文字にすると重いな…)だし、どう振る舞えば先輩や上司に気に入られるのか、その場をうまくやり過ごせるのか、ある程度は経験とともに学習してきているのである。いわば、本の中の若林よりかは経験値もHPもMPだって上なのだ。はっきり言って、若林を見下した立場のまま本を読んでいた。
その感想を持ってから約半年後。本の中では社会人大学2年目が終わり、ある程度社会というものを理解し始めた若林のエピソードが始まる。
どんどん読み進めるうちに、なんだか違和感が湧いてきた。
「あれ?若林と私って一緒じゃないか??」
衝撃というか、本当にあれ?という感覚がじわじわとやってきた。
自信がないのに自分は人と違うと周りを見下している。
誰も見てないのに、誰かに見られていると変に勘違いしてしまう。
自分が自分を認めていないから、他人から承認されたい・受け入れられたいと
強く思ってしまう。
そして、ある文章が大きく私を頷かせた。
「人嫌いと人見知りは違う。 本当は人に近付きたい、でも近付いて嫌われたくないという自意識過剰な人が人見知りになる。人見知りの人は周りに人が少ないから孤独感を勝手に抱き始める。そうなると誰かに理解して承認してもらいたくなる。承認欲求が芽生えると表現なんぞを始める。だから、意外と重度の人見知りこそいけしゃあしゃあと人前に出て表現したりするものなのだ。」
「いじることはできるのに、いじられることができないのは根本に自分に自信が無いからだ」
そうか。私は人見知りなのか。人は嫌いではない。でも、積極的に関わろうともしない。そして勝手に一人ぼっちなのかと悲観的になる。だから、自分に自信がなくなって、人のことをいじったり批判したりしてしまう。
いじることはできるのに、いじられることができない。
そうそう。人のことはズケズケと言ってしまうのに、いざ自分が言われる立場になると本気で怒ってしまう。そして、本気で落ち込む。めんどくさい奴なのだ。
自分が認めているコンプレックスや欠点を自分で冗談めかして話すことには、全く抵抗感はない。だってそういう自分を受け入れているから。でも他人からそれを指摘されると「分かってるんだから、いちいち言うなよ!私だってこれでいいと思ってないんだよ!」と、わけのわからない怒りが噴火してしまうのだ。それはもう一瞬で火花が散り始めてしまう。
普段いじられている人は、確かにそういう怒りを感じさせない。「よくこんなに言われてキレずにいられるな~。何も悩みなんてないんだろうな~」と勝手に解釈していたのだが、多分違う。そういう状況受け入れているし、慣れているのだ。私よりもずっと経験値が高くて、自分を充分に認められているのだ。だから人からどう言われようが、そうじゃない!と否定する必要もないし、こんなこと言われるなんて腹が立つ!と怒る必要もない。「言いたいやつには言わしとけ」で片付いているのだろう。
本を読み終えたあと、急に自分が可哀そうになってしまった。いつもこんなんじゃだめだ、と人と比べてばかりでごめんね、と。
まずは自分の良いところを認めてあげよう。悩むだけじゃなくて動いてみよう。
なんだか人生の扉の隙間に指が入ったような気がしてきた。